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物価調整能力-Part2

我ながらわかりにくい文を前回書いたので、いただいたコメントも踏まえ補足を。

僕が思うのは、収入が変わらなくても、この使い方に変化がある、というのが面白い、というところ。ちょっと旅行で途上国行った時に、意外と気前良くならない。現地の人に近い物の目で買い物を判断する。これって、自分の懐だけで物事を判断していないということ。だって、いくらケチっても、僕の場合、トータルで所詮5千円も差は出なかったはず、ガーナで(旅行トータルでは20万以上だからその差は小さい)。そのくらいなら好きなもの買えばいいじゃん、と思うのだが、現地に行くと結構厳しく買い物をする。タクシーで100円値切ったりしている。
これは何でなのだろう???と思うわけです。

つまり安い物価水準のところに行けば、その水準の元での価格差をしっかり見て、それが価値に値するかを考え、パスタにするかFUFUにするかを真剣に検討している。日本では、850円のボンゴレと880円のカルボナーラであれば、特に値段は気にしないにもかかわらず。

収入が多くなれば(経済的に豊かになれば)、細かい価格差は気にしなくなるもの。これは情報量の処理能力に限界があるから等々により当然のこと。(学生であれば、850円と880円では十分真剣に悩む価値がある。)

なので、経済的に豊かになってしまった以上、こういう細かいところは無視されても仕方ないのだ!と僕も思っていたのですが、実は我々には本質的にいまだに細かいところもしっかり検討する能力があるというところ。それが途上国にいくとわかる。
(歯磨き中、水流しっぱなしでも気にしないのは、所詮とめなくても月100円くらいしか変わらないだろうから。でも途上国にいったら100円節約するためにとめられる。旅行期間中だから特に所得が変わらないのに)

僕は、欲望を教育で制約しようとは言っているのではなく、この価格に対してしっかり物の価値を判断する能力が、教育でなんとか豊かになった我々も細かいレベルで維持できないのか?と思っているのです。

豊かになると細かいところが大雑把になる。その大雑把さが「無駄な」資源消費につながっていて、実はその消費分は消費したとしても大して喜びにつながっていない。。。

本来備わっていないものを浸透させようとするのであれば、困難があると思うのですが、途上国にいけばわかるように、我々には備わっている。なんとかこれをうまく活用できないか?と思うわけです。教育で。
日本人が持っていた「もったいない精神」がなんかこれとつながるような気もしますが。
(いつまでも途上国で持つ「買う価値があるのか?」の厳しい目を持ち続けられる装置では?)

エネルギーにしても資源にしても、その多くが実際消費者が感じられる『価値』と関係ないところで消費されていたりします。経済が豊かになることで、このよくわからない「気前の良さ」が消費者に生まれ、無駄な浪費を生んでいるのです。
途上国にいくと復活する、この繊細な価値判断基準を、なんとか調整されることなく日本でも維持できれば、だいぶ良くなるのでは??という気がしています。
(つまり、僕もこれがきちんと備わってなく、アメリカ的な浪費傾向がやや復活している。こっち戻ってきて(僕の購買基準は前回書いた程度のものしかないので)。なんとかならんものかね?と思ったのが考え始めた理由なのです。)

ということでアクションプラン。

・大盛を頼むとき
  それが最後までおいしくいただけるのかを考えましょう。大盛100円で安いからとりあえず大盛、とせず。きっと途上国にいけばこの100円の価値であなたは真剣に悩むはずだ!

・飲み屋で最後のビール一杯頼むとき。
  本当に中生でいいか考えましょう。小生でもはや十分満足かもしれない。中生だと残すかもしれない。(酔っ払って朦朧としている脳みそをフル回転させましょう)

・可能であれば海外の通貨を使って物事を考えましょう(非現実的)
  カレーは30000Cedis(300円)だがカツカレーは40000Cedis(400円)か。10000Cedisの差はでかいな。。。10000Cedisあれば、ガーナで○○や●●が買える差だからな・・・(ちなみにカツをつければ環境インパクトは当然100円以上の差)

by shinji_isono | 2006-08-12 23:42 | いそいそ的環境学  

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